ご先祖様、石川 数正公 の生き様。

*今回は、ついつい色々書きたくなってしまい、記事がやや長くなりました。

ご興味ある方は、以下お付き合い頂きたいと思います。

 

石川 義時公を初代とする、当石川家。

15代御当主、石川 清兼公を祖父、

石川 康正公を父にもつ

石川 数正(いしかわ かずまさ)公。

歴史好きな方や、信長の野望などの歴史ゲーム

がお好きな方であれば、

必ず知っているであろう有名な武将でもあられます。

 

今回は、この石川 数正公と

共通のご先祖様のDNAを引き受け継いでいる身として

戦国時代を駆け抜けた、一人の男の

生き様

について書いてみたいと思います。

 

※ 石川家 笹竜胆家紋 と 鎧兜の五月人形

 

子供の頃、大河ドラマなどで、石川 数正公の名前は時々聞いた覚えがありました。

当時は、同じ「いしかわ」という姓なんだなーぐらいでしたが。

この年になり、色々なご縁のおかげで、

自身のルーツを探る、

ワクワクする冒険を始め、彼の石川 数正公が

血の繋がった、ご先祖様であると

改めて知ったときには、衝撃と興奮を覚えました。

確かに、当家の家系図にも、数正公の御名が記されています。

 

 

補足になりますが、当家の家系としては、石川 清兼公以降は

16代御当主、数正公にとっては、叔父にあたる石川 家成(いしかわ いえなり)公へと繋がり、

以後、徳川政権時代は 第19第の御当主である 石川 貞當(サダマサ)公以後は

現在の愛知県、足助に大嶋陣屋を構える直参旗本、大嶋石川家となり、

大政奉還、明治維新の混乱期を経て、帰農(農民になる事)され、

紆余曲折あったものの、現在までお家が絶える事なく続いています。

 

※我が家のルーツに関しましては、よろしければ以下の記事も合わせてご覧下さい。

 

柳営会・会員としての矜持

 

という訳で。

今回の記事を通して、

少しでも、石川 数正公に興味をもっていただける方が増えれば、

という思いもあります。

時代背景にある程度の知識や関心がない方や、固有名詞にピンと来ない方には

やや馴染みにくいかもしれませんが、

お好きな方は、以下是非読み進めて下さいませ。

 

 

徳川家康公が、今川義元の人質であった頃からお仕えした数正公

 

三河の地にお生まれになられた、徳川 家康公がまだ

竹千代君

であった時代、岡崎を領地とする松平家は

名だたる戦国武将の群雄割拠する状況にあって

いかに存続していくか 窮地に立たされていました。

そのような情勢なか 竹千代君は 駿府の領主

今川義元公のもとで 人質として 幼少時代を

お過ごしになられました。

数正公は この頃より 松平、後の徳川家にお仕えした

まさに苦楽を共にされた 懐刀、忠臣のひとりで

あったとされています。

有名な

桶狭間の戦い

で 今川義元公は 織田信長公に討たれます。

そしてここから 徳川家の運命も

大きく動き出す事になりました。

定説では

この時、今川 氏真公(義元の嫡子)に人質にとられて

いた松平家の方々を救い出すために

困難な外交交渉を担当し 見事救い出したとされるのが

数正公とされています。

一歩間違えば 命の危険もあったであろう交渉事に臨み

しっかりと成果もあげる。

私的には 知略、知性を感じさせられる

とても痺れるエピソードです。

また 家康公の 岡崎での歩みを語る上では

三河一向一揆

について触れる必要があると思われます。

当時 一向宗 浄土宗の信者達は 強い結束力を

持っており 様々な 利権などを巡って

しばしば 領主と対立する事があったようです。

日本に限らず ある宗教の信者が団結して政治的発言や

なんらかの行動を起こす事で

為政者を悩ませるという歴史は

世界史上珍しくない事と言えます。

三河の地を平和裡に治めたい 家康公にとって

一向宗の存在は 社会の安定を乱す脅威であったと

想像されます。

私も その当時を偲ぶべく 一昨年 三河の地

今でいう 安城市の 史跡を巡らせて頂きました。

門徒達が 拠点にしていた神社仏閣は

さながら武装要塞を思わせる 軍事拠点の様相を

呈しており これにはさぞかし 家康公 ご先祖は

手を焼いたであろうな などと思いを巡らせました。

 

 

 

*愛知県・安城市、一向一揆の拠点であった本證寺(ほんしょうじ)。

文化財にも指定されている、鼓楼(ころう)は

お寺というより、もはや城郭の一部を思わせる威容。

 

 

実は 石川家ご先祖様は とても熱心な一向宗の

家系でもあり一向一揆の際には  家康公の側に着くのか 袂を分かち 戦うのか?

石川一族の内部でも 多いに葛藤があったようです。

詳述は控えますが 数正公らは 家康公側にお仕えし

三河の統一に貢献する事なりました。

もしなにかが 違っていたら 血統が途絶え

江戸幕府の柳営なる事もなく 私も今の世に存在

しなかったかも知れない。。。そんな事も ふと

考えたりしました。

 

武勲と知略。徳川家臣団の中でも光る個性

 

数正公は 歴史の教科書にも登場する 数多の合戦

浅井 朝倉家と 対峙し 織田 信長方の軍勢として

参戦した

姉川の戦い。

甲斐の猛将 武田 信玄公と合間見えた

三方ヶ原の戦い。

その息子である 武田勝頼公との決戦となった

長篠の戦い。

勇猛果敢な戦ぶりに加え 明晰な頭脳で 冷静に

戦局を見極める。

そんな数正公の姿を思い描いています。

多くの歴史小説でも 家康公と三河武士軍団の

物語が題材となっていますが 最近はこちらの

本の続きを楽しみにしています。

 

 


家康 (一)自立篇

 

こちらにも 勿論 数正公は登場し 生身の人間として

とても生き生きと描写されています。

ただ どちらかというと いつも理論整然として

感情を面に出さない 少し冷たいイメージが感じられる

キャラクター設定ようです笑。

こちらの本の中では 発言としては間違ってはいないが

家康公の癇に障り

いきなり殴り飛ばされる!という 残念な笑

場面もあります。

つい余計な一言をいい 叱られる。

しかも 間違った事は言っていないという自負がある。

私も 子供の頃 口達者と言われ、よく 祖父母に叱責を受けて

いましたので このシーンにはとても同情しました。

そして やはりこれは

血、DNAなんだ!と 妙に

納得、満足笑

した次第でもあります。

 

豊臣方への出奔。徳川方のスパイ活動?その真意や如何に?!

 

 

 

インターネットで

石川 数正

を検索されますと

予想される関連キーワードとして

出奔(裏切って逃げ出す、敵方に向かう事)

と表示されるぐらい

これらはセットで語られるのが もはや定番とも

言えます。

私は歴史の専門家ではないので 様々な学説を こちらで

検証する事は致しません。

ただ 実際に 齢 53歳にして 徳川家をお離れになり

豊臣 秀吉公率いる大阪方の 家臣団の一員に

なったという史実から

その重大な決意、について

一族の子孫の一人として あれこれ想いを

巡らせてみたいと感じています。

まずは この辺りの経緯について サスペンス風に

描かれている歴史小説

謀将 石川 数正 という 本をご紹介したいと思います。

 

 


謀将 石川数正 (新潮文庫)

 

 

*現在では、絶版になっており、私は図書館にて借りて読みました。

序盤では

なぜ?出奔するに至ったか

数正公の 揺れる心情が 丁寧に描写されています。

豊田秀吉が 大阪に居を構え 日の本(日本)の

統一に向けて 着々と手筈を整える時勢にあって

これに立ちはだかる 徳川 家康公。

両雄は ついに小牧 長久手にて 対決するに及びます。

家康公は 豊臣勢に痛撃を与えるも 深追いはせず

結局 曖昧な形で 戦 は終焉。

以後 双方の出方を探りあう状態になり

そうした背景にあって 豊臣 秀吉との外交交渉役として

徳川方の代表として数公が 役目を仰せつかる事に

なりました。

おそらくは 諜報能力 今でいう

インテリジェンス オフィサー(諜報員)としての

能力、資質を見出されての 抜擢だったのでしょうね、

さすがです!!

当初は 警戒から 緊張の対面を繰り返すも

やがて 天性の 人たらし

豊臣 秀吉公の 人心掌握術に 翻弄されていく

数正公。。。

自分の配下への引き抜きを 仄めかしつつ

頻繁に 数正公に対して 臣下を通して接触を

図るようになります。

三河 徳川方の家臣団においては

秀吉撃つべし!という いわゆる主戦派

も居た事と想像されます。

そういう立場から見ると 秀吉公と親しく交わっている

と映ったであろう数正公は ある意味疎まれた可能性が

あったのでは?と 想像できます。

もしかしたら、疎外感や、実際に内通(裏でなにか画策している)の疑いで

見られ、身に危険が及ぶ事も危惧していたかも知れません。

そういう、やや追い込まれた状況にあって、

「そなたを高く評価している」

「是非、大阪で天下の在り方について一緒に考えようではないか」

などと 現代でいうところの

「ヘッド・ハンティング」的に

囁かれたとしたら、徳川方への忠義が少し揺らいだとしても

不思議ではないように思われます。もちろん、想像に過ぎませんが。

 

いずれにしても、こうした状況は、今の世の中におきかえれば、

同じ組織でずっと勤めていくにあたり、

「このままでいいのか?」

管理職として、定年まで、事を荒立てずに生きていけばよいのか?

他にも活躍できる場はないのだろうか。。。?

などという、我々世代のサラリーマンにも通ずる葛藤とも言えるのでは

ないでしょうか?

そして自分の能力に自信がある場合には、

やがて独立なども視野に入れて活動する事も

あるでしょう。

そんなタイミングで、ヘッド・ハンティングをされた場合などには

大いに心が揺れ動く事になるかと思われます。

 

実際のところは、数正公は、泰然自若として、

あくまで徳川 家康公に忠節を尽くす立場で、

豊臣家を内側から攪乱、崩壊に導くための

「諜報員」、「スパイ」であった可能性について指摘する説もあるようです。

本書は、そのタイトルからして、謀将(はかりごと、なにかを画策する人物)

というスタンスで、数正公を描いており、

随所にハラハラ・ドキドキの要素が盛り込まれています。

 

ややネタばれになりますが、

年老いた秀吉公に朝鮮出兵を使嗾し(そそのかす事)、豊臣家臣団を分断、

弱体させ崩壊に導いた張本人としての、数正公という

大胆な設定で楽しませてくれます。

秀吉公が太閤殿下として、天下に号令し、ほぼ己の目標を達した事で、

急に老け込み、衰えを見せ始めた時期。。。

 

これは、コーチング的には、

「ゴールが達成されて、心身のエネルギー状態がさがる」

不安定な状態とされており、間髪入れず、より高いゴール、それも

なるべく利他的(世の為になる)ゴールを設定する必要があると

見なされている精神状態です。

 

この時点で、すでに大いなる信頼を勝ち得ていた数正公は、

太閤殿下に向かって、おおよそこのように囁きます。

「海の向こうには、明という大国が控えております。かの国にも、

殿下の栄光を知らしめるべきかと存じます」と。

この場面では、そばにお仕えしていた、大阪方きっての知将、

石田 三成公が、気色ばんで、出兵反対の異を唱えます。

怜悧な彼は、そのような無謀な出兵計画は、豊臣家にとって

決して利益にはならず、むしろ諸将を消耗させる事になる事態を

瞬時に想定したものと思われます。

大阪へ出奔した当初から、徳川家スパイの嫌疑のまなざしで見ていた

数正公に対して、三成公としては、当然ともいえる発言です。

とても地味な場面ですが、二人の知将同士の火花散る頭脳戦!で

興奮しました。

結果としては、この発言がきっかけとなり(もちろん小説としての脚色では

ありますが)、秀吉公は目の輝きを取り戻し、

「そうだ、まだ己にはやり遂げるべき大事業があったのだ」

と憑りつかれたように、立ちあがるのでした。

見事に、潜在意識に働きかけた成果と言えます。

そして、朝鮮出兵に異を唱えた三成公を叱責し、

ただちに出陣の指揮を取れ!と檄を飛ばしたのです。

この瞬間に、数正公は心のなかで喝采、

「勝った」

と思う訳であります。

正確な史実はさておいて。

もしかしたら、そういう遣り取りがあったかも知れない。

歴史と戯れる楽しさ、ワクワク感はこのあたりにありますね。

まさに、某将としての数正公の、真骨頂が感じられる

名場面として、

私の心に深く刻まれています。。。

 

石川 数正公には、どうしても

「裏切者」

という負のイメージが付きまとうかと思われます。

徳川家を裏切り、更には信頼されていた

豊臣家の瓦解にも関与したとすれば、

確かにそういう評価は致し方ないですかね。

ただ、歴史の大きな流れのなかで、たったひとりの陰謀で

すべてが動くなどという事は当然なく、

自身が置かれた状況で、考えを尽くして、

最善と思われる行動をとった。

そういう一人の戦国武将として、

是非、中立な立場で、捉えてみるのがよいのでは、と

石川一族の末裔としては、思う訳であります。

以上、たぶんに私情が入った今回の記事でしたが、

最後までお付き合いいただいた方には、

心より御礼申し上げます。ありがとうございました!

 

 


石川数正 (人物文庫)